変わりゆく世界

ロシアとウクライナの情勢について、楽観的な、期待していた見立てがことごとく覆される様子を見てきた。

最悪の事態をも想定すれば、もはや個人でできる事等何も無いようにすら思われるのだけど、せめて入手できる情報から気になった2テーマについて考えてみた。

普遍悪を特定の集団に押し付けることの代償

「(主に高齢者が占める) 情報弱者が、現政権の決断を支持している」ことが垣間見えるモスクワ市民へのインタビュー動画が海外の公共メディアで流れた。
現政権を支持する当事者たちは皆「西側の情報にも触れている」上で支持しているようだった。

ロシア外部の人々はこのことを以て、悪いのは大統領だが結果的に「それを支持しているロシア人」にも一定の責任がある、と非難しているという情報がある。そして結果的に、

  • ロシア人×高齢者
  • ロシア人×情報弱者

という属性の掛け合わせに対するネガティブ・イメージが知らないところで醸成されていく懸念がある。

情報を一面的・断片的に判断し、結果の重大性を過小評価する行動を傲慢または怠惰に由来すると仮定すれば、このような行為は人間の持つ本質的な弱さの表出と思える。

そして対象や文脈を代えれば日本でも、いつの時代でも目にすることがあるだろう。「差別」を根源とする全ての過ちはこのような例になる。

人間の持つ普遍的な欠陥と言うべき行動の責任を特定の属性に求め切り捨てることは、露大統領のような怪物が生まれた時、対抗する術が制限されるという意味において危険であろう。実際現代ロシアは少なくとも7人に一人は老齢であり、その多くが彼らのリーダーを支持し、政治的影響力を持つ。

「北風と太陽」万能論へのアンチテーゼ

私は日本に住んでいるので、勿論日本や欧米諸国の対応を支持している。

その上で、今回の件に始まった事ではないのだが、相手に依拠しない「東側」の現実主義的な対外体制を取り入れていく事が必要という状況に差し掛かってるのかも知れない、と思うようになった。特にこの事は第二次大戦の敗戦国にとって重い意味を持つだろう。

私たちは対立が起こった時、相手を観察し、対話し、理解し、受け入れ、緩和する、という (必ずしも時系列順とは限らない) プロセスを経て解決に向かう。平和的な解決のためには、このプロセスに大きな修正は不要であろう。

「北風と太陽」の話は、「仁」の効力として孔子が説いた対立が起こる前に相手を受け入れてしまえば、相手もそれに応じる、という相互作用を説明したアナロジーと解釈できる。しかしこのプロセスが盤石であるためには、対話によって相手を理解し受け入れられる相手・内容であるという条件が必要なのは言うまでもない。

一度事が起これば、現実におけるこの条件は私たちが望んでいるよりはるかに厳しいようである。

実際小さい規模の係争であっても、あなたが自身の財産や時間、尊厳や生命を力で奪われる危機を乗り越えてきたならば、北風と太陽の話はどこか的外れに聞こえるに違いない。

ウクライナ難民受け入れについて

国民としてできることは気持ちを伝える事くらいだろう。私はウクライナの方々を歓迎する。ロシアの多くの一般市民にも同情する。

しかし私たちにとっても他人事ではない。この危機的状況を乗り越えられた時には、声を挙げる機運と見て防衛体制の整備を訴えよう。