8/6 いわゆる日記: かわいい

チェーホフ短編集の中に「かわいい」という作品があって、最近それを読む機会がありました。
主人公のオーレンカは恋多き女。恋人が死去したり、別離してしまうと、ものの一年も待たずして別の愛情の対象を見つけ、またその度にその恋人を心の底より愛でては彼らの言葉を真に受け、自分の意見とするような女性でした。

恋人が劇団監督であれば民衆には俗なものしか理解が及ばず、芸術を真に理解することはできんと言い、また医者が恋人の時には最近は疫病が流行っており、動物の健康管理は人間以上に神経を尖らせてやらねばならんと言うのでした。
彼女は自分の意見というものを最後の最後まで持てないでいるのでした。

解説によれば、当時の女性読者からは女性を馬鹿にしているとの批判が大きかった一方で、男性からはこれぞ女の鑑といった声が数多くあったようです。
これは今日書く内容の本題ではないのですが、先ほどまで「かわいい」ということについて珍しく少し黙って考えていて、是非そのことを書こうと心に決めて、簡便のためにこの本を序文に引用したのです。これは面白い作品です。

このオーレンカという、側面的には何とも節操がないようにも感ぜられる女性も、今となって私が感じたことといえば、安心感のようなものだった。やはりこれは大事なことだ、というようなものです。
つまりこうです。この女性が(容姿や背格好、曲線のような外的素質を抜きに)かわいいと思えるのは、彼女の、恋人の存在に対して自分が何らかの変革を起こしたという態度、それは即ち敬意に対するものです。
しかもその態度は恋人の能力に対してでなく、恋人の存在に対して充てがわれている。

コンピュータが我々に残した禍根は、我々をあまり「かわいく」なくさせたことではないか。