背景仮説: 当事者の教育介入・選択の自由問題
“義務教育” は日本国民に教育を受ける「自由」を保障する一方で、現体制・制度は時代の変遷に適合しているとはいい難く、実態として次のような(i.e., “1次的” な) 問題が認識されています。
これらの表出している問題そのものも重篤な問題である一方、このような問題があった場合又はある前提で、行政や教育機関、自治体が介入し、根本の解決に取り組める状態にあるのか、他方で当事者である子供やお子さんを持つ家族が、教育の内容やその不備について認識し、不当な不利益を被ることなく代替案を選択できるのか、という制度上・体制上の問題が認識されており、これらはより高次の (i.e., “2次的” な) 根深い問題です。
教育の現場を含むこれら “公的コミュニティ” — 小中学校を筆頭とする、経済状況に依らずアクセスできるコミュニティ — が訂正・修復する力を構造上十分に持たないので、従来の地縁・血縁的なコミュニティが衰退する一方、SNSなどを通じた新たなオンライン・コミュニティが若者にとって重要な意味を持つようになっています。しかし、これらの新しいコミュニティが、現実の教育問題に対するセーフティネットとして機能しているかは、まだ議論の余地があります。
“公的コミュニティ” が十分機能しない、もしくは機能するかのように当事者(i.e.,子供)が振る舞おうとすれば、病的なコミュニティの中で正常性バイアスの範囲を拡大した帰結としてのZ思想 — 拝金主義、冷笑主義、コスパ・タイパ志向 — が自然なものとして受け入れられることになります。
そこから距離を置く又は自主的に選択できる(多くの場合裕福な)家庭と共生する形で、結果的に親の経済力任せの “自由” は “公的コミュニティ” に迎合され3、衰退する日本においてはその経済格差がより先鋭化された形で「親ガチャ」等と揶揄・冷笑されたり、”公的コミュニティ” 側では教育制度への従属的態度を奨励・助長するような体制を維持させ、それらに見切りを付けた子供たちは、一方では非行・逃避に、他方では受験戦争に取り込まれていく”二極化”された力学に圧倒されてしまうのです。4
背景仮説からZ思想への因果関係について
以上の考察を踏まえると、「背景仮説で示された教育システムの構造的欠陥は、若者の間で『Z思想』が広がるための主要な要因の一つである」と結論づけることができます。
但し直接的な因果関係というよりは、次のような表現が適切ですので、私の主張として改めて示します。
背景仮説で示された教育環境が「Z思想」を合理的かつ自然な選択肢として醸成する「土壌」や「生態系」を作り出している
その因果関係は、以下のように整理できます。
- 制度への不信 → 冷笑主義:
いじめや不祥事への不誠実な対応を目の当たりにした子どもは、学校や社会の「正義」や「公正さ」に深い不信感を抱きます。これが、何事も斜に構え、熱くなることを避ける冷笑主義の温床となります。 - 格差の固定化と自己責任論 → 拝金主義と「親ガチャ」:
努力では覆し難い「親ガチャ」という現実を認識すると、成功の尺度は人格や社会貢献といった曖昧なものではなく、誰の目にも明らかな「経済力」に収斂しやすくなります(拝金主義)。自分の境遇を嘆くのではなく、冷笑的に「ネタ」として消費する態度もここから生まれます。 - 未来の不確実性と過当競争 → コスパ・タイパ志向:
衰退する日本経済と不安定な社会情勢の中、「良い大学に入り、良い会社に就職する」という成功モデルは揺らいでいます。リスクを極度に恐れ、失敗しないための最短ルートを求める結果、教育は「自己実現の場」から「効率的にこなすタスク」へと変容し、コスパ・タイパが最優先の価値基準となります。
義務教育の現状の私の結論
これまでの議論であったように、背景仮説にある教育システムの機能不全は、単に教育現場だけの問題に留まりません。それは、社会の次代を担う若者たちの精神性や価値観を深く規定し、結果として「Z思想」とも呼べるような一群の態度を生み出す、極めて根源的な社会的課題であると言えるでしょう。
私はこの問題を戦後日本が本質的に抱える最も深刻な膿の表出だと捉えており、帰結として次のような提言をします。
義務教育を廃止し、選択的教育制度を導入する。
- 選択的教育制度の詳細については別記事で書きますが、母体のベースは、地域コミュニティ又はネット上のコミュニティの中でメンターとして”専門家”を集い、養育・教育機能を付加したものを”教育コミュニティ”として予算が付くものです。
- 国内ボーイスカウト5は非常に良い参考事例ですが、諸外国と比較して以下3点について課題があります:
- 資金源が限定的かつ規模が小さい
- 理念の解像度が低い — 「地域社会への奉仕」という漠然とした理念が主な社会的役割になっており、アメリカに顕著な市民性・リーダーシップ教育や、イギリスで重視される”Skills for Life”のような実利を重んじる教育的機能の整備が不完全で言語化されていない
- 指導者(メンター)の受け入れ制度・研修制度が不完全 — 厳格な身元保証確認やセーフガード・トレーニング研修等が制度上確立していない
自然離れとの関係
「全国学力・学習状況調査」の質問紙調査などでは、児童生徒の自然体験活動の頻度が低い傾向が指摘されています。また、環境教育や発達心理学の分野では、自然体験の欠如が、共感性や非認知能力の発達、ストレス耐性などに影響を与える可能性が研究されています。受験勉強の早期化や都市化により、子どもたちが体系的・合理的な知識習得に偏重し、五感を通じた非合理で予測不能な自然との触れ合いが失われることが、「自然離れ」の背景にあると考えられます。
これまでの議論からは少し脱線するようにも思えますが、背景仮説で提示した「教育崩壊」に対し、私は「自然×教育×数理」という切り口で次のようなアプローチができると考えています。
- 理論・応用の文脈で新しい分野を開拓し、選択肢を提示する;
- “公的” と異なる第2, 第3のバリアフリー・コミュニティ — 経済的/機能的格差の影響を受けない・受けにくいようなコミュニティ — の発足を促す土壌を醸成する;
感覚的な話なので敢えて加えませんでしたが、『Z思想』には (広義の)自然離れ — 自然の中での活動が不合理であるとして忌避する態度 — も含まれるだろうと思っていて、少しずつですが、私個人の生活の中で、そして事業として、上記のアプローチの体現を進めています。
- 文部科学省の調査によれば、2022年の小中高校生の自殺者数は514人と過去最多を記録しており、深刻な状況です。
- 教員志願者数の減少と採用倍率の低下は全国的な課題となっており、「監督者の不足・不適切な配置」は教育の質を直接的に脅かす問題として広く認識されています。
- フリースクールやオルタナティブスクール、ホームスクーリングといった選択肢は制度上存在しますが、その数は十分ではなく、公教育に比べて高額な費用がかかる場合がほとんどです。これは実質的に親の経済力に依存した「自由」となっている現状を裏付けています。
- 子どもたちの進路が「非行・逃避」と「受験戦争」に二極化する力が働いているとされる主張は大きな傾向としてであって、現実にはより多様な反応が見られます。例えば、NPO活動への参加、地域コミュニティでの新たな学びの場の創出、あるいは過度な競争を避けて地方の大学や専門学校を選択するなど、既存の価値観から距離を置こうとする若者も一定数存在します。
- 公益財団法人ボーイスカウト日本連盟が運営。