国民と国家は別なのだろうか

どの番組か忘れたが (恐らくAbema Prime), ある有識者が次のように発言していた:

国民と国家を別に考えないと, (経済制裁が元首や側近に行かず, 国民にばかり行く恐れがあるので) 果たして経済制裁が本当に効くのか疑問

元より私には, 国民と国家を別と考える論調には説明できない違和感があって, その違和感の正体を明らかにするために幾つかの歴史を調べる必要があった. 今でも確信ではないが, その違和感に対する合理的な回答となったのは, 主に次の4つの事柄である:

  1. ゴルバチョフとプーチンの比較;
  2. プーチンとスターリンの比較;
  3. ゴルバチョフからプーチンへの政権交代に至る経緯;
  4. それぞれの国家元首に対する国民と世界の反応;

最初の3つを調べ終わる頃には, 既に私個人を納得させるには十分であったが, Why Democracy Didn’t Work in Russia は, 最後の4つ目の情報によって信憑性を補足した.

この記事では, 20世紀末期にモスクワで特派員として働いていた著者が, 当時クリントン政権下でロシア公務の一切を担当した米国務副長官Talbottの (スタンフォード) 大学でのスピーチへの所見を綴っている. 同時に, 地域的・年代的, あるいは教育的背景によって当時のロシア (ソ連) 人の体制や抑圧に対する反応がどのように変化するのか, Masha Gessenの著書『THE FUTURE IS HISTORY: HOW TOTALITARIANISM RECLAIMED RUSSIA』を引用しつつ著者の経験に基づいて考察がある.

私の方から端的に結論を言えば, (自由) 民主主義体制を80年近く取れている我が国日本では考えられないことだが, ロシアは長らく全体主義体制を取り続けており, 国民と国家の利益と損失、成長と衰退を分つように心理的・社会的・哲学的に染まってしまっている. よって国家と国民が別というのは到底成り立たないのだ.

公の歴史となっているので全ては説明しないが, 8月クーデターはそのことを示唆する分かりやすい例の一つだと思われる.

20世紀後期、ソ連は少なくとも私たちが認識できる意味で (必ずしも自由ではないが) ”民主的な” ゴルバチョフ政権体制下にいた。 (統率者が望めば) 腐敗・独裁に容易に移行できてしまう明らかな欠陥を持つ内政に長らく問題意識を持っていたゴルバチョフは、その改革を進める様々な試みや、民主化を支持し西欧との健全な関係を築いたこと等から、近代ロシアの元首としては類稀なる存在であった.

国内政策での保守派への妥協にも関わらず、ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は明確な形で続けられた。従来のブレジネフ・ドクトリンによる強圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、ハンガリー事件やプラハの春で起こったソビエト連邦軍による民主化運動の弾圧はもう起こらないことを示した。事実、1989年のポーランドにおける円卓会議を起点とする一連の東欧革命に関して、ソ連は軍事的行動を行わず、1990年には東ドイツの西ドイツへの統合(ドイツ再統一)まで実現することになった。

— 冷戦の終結・東欧革命によってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や生産縮小を強いられた軍産複合体の中にはゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」「弱腰」と批判して、共産党内の保守派と接近した。共産党内でも、ソ連国家における党の指導性が放棄されることに警戒感が強まり、従来は改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフを圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼの突然の辞任につながった。ゴルバチョフ自身も保守派への配慮から1991年2月にリトアニアの首都ヴィリニュスで発生したリトアニア独立革命に対するソビエト連邦軍・治安警察による武力弾圧を承認せざるを得なかった(血の日曜日事件)。

— 1991年、ゴルバチョフは再び舵を改革派の側に切る。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のエリツィン、カザフ・ソビエト社会主義共和国のヌルスルタン・ナザルバエフの2人と会談し、新連邦条約を8月20日に調印する運びとなった。

ところが8月19日、クリミア半島フォロスの大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、KGB議長のウラジーミル・クリュチコフ、副大統領のヤナーエフ、そして、ヴァレンチン・パヴロフ首相らの「国家非常事態委員会」を名のる保守派が起こしたクーデターによって、妻のライーサや家族、外交政策担当大統領補佐官のアナトリー・チェルニャーエフら側近たちとともに別荘に軟禁された。

ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製のラジオがニュースの電波を拾うことができたため、モスクワでエリツィンや市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り、救出される希望を捨てなかったという。

上記のように国民や軍部の支持を得られなかっただけでなく、国際社会からも大きな反発を受けたために、結果的にクーデターそのものは失敗に終わり、8月22日にクーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者たちはいずれもゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜した。これにより連邦政府自身の求心力も低下を余儀なくされた。

Wikipedia — ミハイル・ゴルバチョフ

ゴルバチョフは (ある意味で民主化のための最後の) 改革を起こそうとしたが, この8月クーデターによって家族が軟禁される事態となった. 首謀したのはKGB議長のウラジーミル・クリュチコフら, ゴルバチョフ自身の側近である.

かようにして, この Homo Sovieticus と言うべき「古き強きロシア」の夢を掲げる人々は, 私たちが国家に期待する和平と自由, 民主主義を西への迎合, 弱腰と評するという事である.

Homo Sovieticus (先の文脈では保守派・保守思想と置き換えることもできる) の浸透は, 国の長らく行っていた “洗脳” によるものだろうと, 私のような内情を良く知らぬ人間からすれば考えたくもなるが, 洗脳であるかどうかはもはや問題ではない.

幾つかの事例が示唆していることは, その思想は数年, 数十年の間, 彼ら自身では解けないのだろうということだ.

少なくとも西暦2000年当時, ゴルバチョフを追い詰め, スターリン[1]ヒトラーと対比される, ロシアの象徴的独裁者. ウクライナにおいてHolodomor (ホロドモール) … Continue readingのような “強い” 元首の再訪を望み, プーチンを歓迎したのは国民・官僚だったのだから[2]2017年のレバダ・センターの世論調査では, 「ロシア史上最も偉大な人物」にスターリンが1位, プーチンが2位に選ばれているという. … Continue reading.

Footnotes

Footnotes
1 ヒトラーと対比される, ロシアの象徴的独裁者. ウクライナにおいてHolodomor (ホロドモール) と呼ばれる人為的な食糧不足政策の結果としてジェノサイドを行い, 1000万人規模の死者を出したと推定される.
2 2017年のレバダ・センターの世論調査では, 「ロシア史上最も偉大な人物」にスターリンが1位, プーチンが2位に選ばれているという. 但し世論調査の有効性については現政権批判の統制を考えると疑問が残る.