アルピニズムと死

「アルピニズムと死」 – 山野井泰史著

近頃 (といってもここ一カ月程度の話だが), 見たり読んだり考えたりすることが多くて疲れてしまうので, お手軽SNSに辛うじて覚書程度のものを記録しているが, 一年の内数カ月はそういう期間があって良いものかも知れないという気にさえなっている.

昨晩も気を失うように眠りに就き, ふと夜に目が覚めてしまうと, 最近購入した山野井さんの書籍を (そのつもりは無かったのだけど) なんだかわくわくして最後まで一気に読んでしまった.

山野井さんと言えば, チベットのギャチュン・カン (Gyachung Kang) 北東壁初登攀時の凍傷により (厳密には下降時だそうだが), 夫妻共に手と足の指の半分以上を失い, 家の (自身らのトレーニング用の) ボルダリングジムでリハビリをしている映像を (どこの番組かは忘れてしまった) 見たのが最初だったように思う.
その番組の中で, 余りの寒さの中で (恐らく眼球が凍結し?) 視界がなくなっていく感覚の中, 雪崩に飛ばされ, 手探りでピトンを岩壁に打ち付けてアンカーを取りながら懸垂下降していく壮絶な帰還のことを語っていたことで印象に残った.

本を読んでみて, 彼の人となりがその時よりもう少し分かったような気がした.

そして彼のストイックさと体験こそが, 「命を懸ける」「限界まで力を出し切る」対象としての登山の美しさに説得力を持たせているし (私なりに共感もしている), 逆に「娯楽としての登山」は人生を懸けるに値しないとキッパリ言い切ってしまっても腑に落ちるような気がした[1]一応補足しておくと, 彼は書籍内で「娯楽としての登山」を否定はしていない. 但し, 花や植物を覚えたりはしていないし, … Continue reading.

私は元よりキャンプから山に興味を持つようになった人間で, ずっと里山ばかり登っていた.
いつからか軽装で出掛けて山に何泊もしてみたいと思うようになり, そこでは「植物や動物が食べられるか」, そして「道具を作る技術」や「道具を使う技術」に関心があった.
そうは言っても水を得るために沢を降りなければいけないこともあるし, 沢を昇り降りするには登攀技術が必要である. 結局何泊もするとなると体力も無いといけないから —— ボルダリングはそのようにして始めたのだが, 当初の自分はまさか今ほど登攀そのものを楽しんでいるとは想像し得なかっただろう.

登山を始めて良かった一番大きいことの一つは, 生を実感したことだ.

現代 (日本) は命に手厚い. 人は簡単に死なないし, 死ねない.

優しい世界に感謝こそすれ, 否定すべきことではないと人は言うかも知れない.
しかし生を保障された世界で生を感じることの難しさは, 優しい世界の代償と言える.

都市生活における人との繋がりは, 死なない前提の関係であって, 死なない前提だから希薄にもなる.[2]過酷な山では驚く程見知らぬ者同士挨拶するのに, 街で人々は目も合わさない. 自身に対しても他人に対しても, … Continue reading

副題にある「なぜ死ななかったのか」を最後の最後まではっきりとは書かず, 「なぜ生きるか」を問う名著に感謝している.

Footnotes

Footnotes
1 一応補足しておくと, 彼は書籍内で「娯楽としての登山」を否定はしていない. 但し, 花や植物を覚えたりはしていないし, 藪山はやりたくないというような記述から見て, 「山での生活」を重要視するスタイルでは無いようだ. 従ってこの書籍に書かれていることだけを前提にすると, 彼はむしろアスリート指向の人だと想像できる.
2 過酷な山では驚く程見知らぬ者同士挨拶するのに, 街で人々は目も合わさない. 自身に対しても他人に対しても, 命が脅かされない状況下では無関心が作法ということだろうか.