責任はいつでも放棄すれば良い

今日は責任についてお話しましょう.

私は登山 (特に1泊以上のクライミングを伴うもの) を趣味にしています.
趣味と言うよりライフスタイルに近いのですが, 山行の度に多少なりとも命の駆け引きがそこには存在します.

そこで果たす責任があるとすれば, 自分とパートナーが生きて帰る事. そして遭難者がいれば自分にできる補助をすることです.

しかし自然の中では人間などちっぽけなもの.

そこでの責任は果たすべくして果たされるのではなく, 結果として果たされたに過ぎないのです.

これは何も相手が過酷な大自然だからという事ではありません. 小さな会社, 一人の人間, 犬や猫であっても, 不確実性について同様に振る舞うのです.

その上人間は傲慢ですから, 自分が不完全であることを忘れる生き物です.

斯様にして, 自分がせいぜい生かされている存在なので, 私は自己責任論を信用しません.
同様に, 私はいつでも自分が半身不随になることも, 犯罪加害者になる事も, 犯罪被害者になる事も想定しているので, やはり自己責任論を信用しません.

果たす責任, 果たされる責任, 私にとってそのようなものは在って無いようなものなのです.

言葉を換えても同じ事です.

「”金を払いさえすれば得られる” エゴの発露としての自由」を標榜する(新)自由主義 (Neoliberalism) は, 人間が生み出す思想の中で最も愚かなものの一つだと考えています.

ここでも人間は不完全であることを忘れ,「当然成されるべきものがある」と思い込んでしまうのです.

責任の話に戻すと, そもそも私にとってみれば, 責任と知性の関係は必ずしも良好とは言えません.

良くて独立, しばしば悪影響を及ぼし合うものです. つまりある責任を果たす為に特定の知性が制限され, 価値を失い, またある知性が在る為に特定の責任を果たすことに疑義や困難が生じるようなものです.

実際のところ, これまでエポックな結果を残してきた知の巨人達は, いえ例え巨人でなくとも, 一体全体何という名目の責任で以て仕事をやり遂げたでしょう?

彼ら彼女らの仕事の為には, その努力と, 才能と, 周りの愛情と, そして少しばかりの運があれば, 責任など形だけのもので, 求める事も, 受け入れることも無用なのです.

これは綺麗ごとでも突飛な空想でもありません.

そして私は人間の知性の信奉者です.

知性とは (定義が与えられるとすれば) 本来総合的なもので, 感情や感性すら含み得るものです.

「制限された知性」とされるものの多くは — 完全性定理の帰結又はそのAnalogy[1]有限演繹 (証明) 可能なプログラムが定式化で導出される.として — 物理制約下でいずれGPT-Nに取って代わられるでしょう.

だから私は常に問うのです, 何のために仕事をするかと.

それが故に,

責任を相手に明確に要求する事も, 逆に要求された責任を無批判に受容する事も, 同等に愚か

だと思っています.

そして, 成熟した思想に基づき何ができるか, 何をしたいかを共に考えられる相手としか仕事をするつもりはありません.

それは恐らく, 私が本質的にはビジネスマンでもエンジニアでも無いからに他なりません.

他方で, 私が仕事を依頼する場合も, 『責任』を果たしてもらう (この言い方は普通私はしませんが) ための万能な方法はありません.

せいぜい土居健郎の『甘えの構造』で言うところの「甘え」(しがらみ) が結果的に生じれば良いくらいのものであって, そこには相手の属性とは無関係に, ただ「いつでも対話の用意がある」だけなのです.

Footnotes

Footnotes
1 有限演繹 (証明) 可能なプログラムが定式化で導出される.