ひとはなぜ戦争をするのか

秋が深まり、山は色付き空気も冷たくなって来た。

去年の今も、山の (冬) 道具の整備をしたり冬に向けたトレーニングに切り替えていた頃だったと思う。

仕事の合間に本を読むこともまた、この時期の楽しみの一つである。

電子書籍を差し置いて昔ながらの紙の本を選ぶ理由は様々で、私の場合は没入したいという理由の他、山に持って行く為の本という事もある。

今日は最近届いた “山用の” 本で、最初に手に取った本を紹介しよう — タイトルは「ひとはなぜ戦争をするのか」。
この本は、今でも私の心に張り付いて離れず、哲学的な問いを残すままになっている。


アインシュタイン (Albert Einstein) とフロイト (Sigmund Freud) は、それぞれが20世紀を代表する学者であり、フロイトに至っては臨床家 (精神医) でもあった。

彼らが接点を持つ事があるなど私もこの本を手に取るまで想像もしていなかったが、1932年、実に第二次世界大戦に向かうナチス政権の勃興期に、国連下の国際知的協力機関が以下の内容でアインシュタインに持ち掛けた依頼を機に、アインシュタインとフロイトは公開書簡をやり取りすることになる。

今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください

選んだ相手はフロイト、内容は「人間を戦争から解き放つことはできるのか?」。

この書簡の内容が、まさにこの記事のタイトルにある本の主旨であるが、本の半分は後書きや解説であって、特に養老孟司氏の書く解説は示唆に富み、書簡では扱われていない問題についての考察や重要な議論の補填はとてもよく書かれてある。

そういう状況なので、私がやりとりの内容について更に補填したり、解説したり、要約を入れてみるのはむしろ水を差すようだし、それほどうまくできるとも思えない。

また、戦争を完全に止めるのか、遠ざけるのか、一つ一つの規模を小さくするのか、どこを目的とするかはさておき、私がここですぐ思い付くような方法は過去に何度も試みられているだろうから、結論じみた事を書こうとも、書けるとも思わない。

唯一つだけ指し添えておくとすれば、私が見ている現代社会の病理とでも言うべきものは、肉体と感情、もっと言えば、思考と情緒でさえも、切り離されていると思わされている事を端に発している。私はそう解釈している。詰まる所、

人間は人間と言う動物である

と言う事に自覚的である人が少ないと感じているのである。

私がこのブログを始めとする様々な場面で、ヒトにとっての教養[1]ここでの教養は、頭でっかちの「勉強ができる」教養を意味しない。人間が内在的に持っている衝動性 — 広い意味で暴力的な — … Continue readingや文化の重要性を訴えるのはその為であって、勿論この感覚自体は私独特のものだが、フロイトがアインシュタインへの手紙の文末で、戦争に終止符を打つための歩みとして「文化の発展を促す」と書いている箇所は、今でも解釈をあれこれ考えるのである。

Footnotes

Footnotes
1 ここでの教養は、頭でっかちの「勉強ができる」教養を意味しない。人間が内在的に持っている衝動性 — 広い意味で暴力的な — に訴えなく済ませるあらゆる知見の事である。