西部邁先生の表現者シンポジウム

生前、少し昔の動画だが、YouTubeで上がって来たので拝聴した。

とても興味深くて、思う所は色々あるが、内容全体を総括することは到底できない。

動画とは直接関係が無いが、主義主張を廃して徹底した中庸を取るという事が常識的な生存戦略の一つだという事を、大人が子供や若者に対し言う事に違和感を覚えていたけれど、その違和感に目を背けてはいけないな、と感じる所があった。

ところで関心事以外を時と場合に応じて止む無く中庸で済ますのと、関心事以外を中庸で済ませば良いと流布する事は全く質が異なる。後者は賢者の皮を被った何とやらというやつだ。

Tyranny of the majorityの終わり

西部先生はこの事を何度か言葉に出している。

Tyrannyというのは独裁や圧制とも訳されるが、ここではMajorityと付く事により、特定の小さなグループが進んで民衆を制圧するのではなく、民衆の多数派が “ルールに則って” 少数派を抑圧してしまう傾向、民主主義と称されるシステムの限界を示す言葉でもある。

但しここでは必ずしもそのままの意味ではない。議会政治の在り方に限定されず、ある種のアナロジーとして非常に微妙なものも含むと解釈される。

例えば民主主義とは名ばかりの国家が決まって行う言論統制は、Tyrannyとしてその最たるものだとしてもそのままで多数派によるものとは解釈されない。しかし頑なに受動的そして無関心である事を崩さない多数市民の心的態度がそれを支持するならば、その限りではない、といった具合である。

民衆がやむを得ず従っている現行法・慣例上の文化的・社会的・政治的不利益といったものは、それが避けられないという意味で強制力があるならばTyrannyの結果と見做されるだろう。

日本だと世襲がもたらすいびつな政治体制の固着等が挙げられそうだが、より深刻なのは安全保障で、私たちは日本に住む選択をし続ける限り、ミサイルを撃ち込まれても「仕方ない」と言わなくてはいけない。文化的に根深いのは恐らく、国民の病的心理を誘導しているようなものだ。明らかな政策との関連を示せないので明言は避けるが、例えばUpToDateの鬱病患者の推移等を参照すると敗戦で壊されて組み入れられた価値観にTyrannyの痕が見えない事もない。

西部先生はTyranny of the majorityの終わりは必ず来るし、その時起こるであろう事を次のように言っていて、印象的であった:

自分たちの至らなさ、頼りなさ、不甲斐なさに自らあきれ果てて沈黙する時、多数者の支配は終わり、これまで何を言っても聞いてもらえなかったマイノリティのごくごく真っ当な、常識的な、平凡な国家に纏わる論説が染み渡る