死刑に関する所見

最近立て続けに死刑判決のニュースが流れてくるが[1]甲府市殺人放火事件、京アニ事件。京アニ事件については1月26日に被告側が控訴。、国内で死刑(制度)に反対する意見を聞く事は、書籍を除けばメディア上は勿論、個人的にも殆どない。

にも関わらず、私は死刑に反対している。

制度の維持は私が日本を “先進国” と見做せない理由の一つでもある。

死刑に処する事、またその制度そのものへの賛否は、重大な事件が起こる度に密かに語られるが、近年はもはや議論と呼べる程のものが起きぬまま、主張を表明すること自体が忌避され、時に批判の対象になる。

ここで極めて問題だと思うのは、加害者の残虐性を不必要に誇張したり、重大犯罪率の低下や私刑の抑制といった(少なくとも科学的に)根拠に乏しい主張を以て、議論や考えることそのものが不本意に抑制されている社会そしてその構造に対してである。

私は被害者保護や、加害者に対し “死に資する” と感ずる程のやり場のない激しい怒り、悲しみ、無力感、そのような言葉では尽くせない被害者の感情を軽視していない。

しかしどれだけ死刑の正当性を主張したところで — それが処罰感情への配慮であっても、秩序・権威の維持であっても — 国家の殺人には変わらない。それも冤罪の可能性を原理的に否定できない殺人である。

もちろん現代の技術を以てすれば、科学的に加害者が誰かという本人性について、疑いを差し挟む余地がない証拠を提示する事ができる場合もあるだろう。

しかし冤罪というのは、本人性 — 容疑者が実際にやったかどうか — という事実だけを問うているのではない。罪の所在に対する冤罪もあるということである。

犯罪は、加害者の、加害者による、加害者だけ内在する “罪” によって引き起こされたのだろうか?

という問いに対し、一遍の疑念も呼び起こさずに立証できる普遍的な手続きによって「確かに彼の “罪” である」と認められる限りにおいて、私は尚冤罪とは呼ばない。

しかしそのような手続きは、現実には存在しない空想上のものである。

そもそも罪とは何であろうか?

加害者の残虐性と被害者の境遇を考慮して、刑罰を受ける事について、個人が自業自得と断罪することは容易い。

しかし死刑というものは、多かれ少なかれ、紀元前の報復善の価値観を国家が踏襲し、市民の野蛮な報復感情を法の元正当化してしまう。それでは奉行所の時代、平安時代から日本の「人を裁く事」に対する倫理が進化していないことになる。

「苦痛」の量化や比較も恣意的である。

加賀乙彦氏の著書「死刑囚の記録」によると、死刑確定後半年と待たずに半数以上の囚人たちは精神異常をきたし、その間に晒される死の恐怖によって頭髪がほとんど抜け落ちると言う。やせ細り、一人では立てなくなる程である。

制度の維持で波及する、教育面での影響も心配だ。

大人がそれを何の疑念も無く支持し、「罪」について考える事を止め、”罪人”を淡々と、無批判に裁く事で溜飲を下げる事が日常になれば、教育を受けていない子供達は容易く原始的価値観に回帰し、自業自得・自己責任論が一層先鋭化するだろう。

悪しきは人の業の深さなのだが。

Footnotes

Footnotes
1 甲府市殺人放火事件、京アニ事件。京アニ事件については1月26日に被告側が控訴。