数学や統計にまつわる興味深い話は探せばたくさん出てくるのですが、次の問題を知っているでしょうか。
死刑囚の3人、A、B、Cは執行を待っている。
ある時恩赦により、3人の内一人だけが解放され、残り二人は変わらず処刑されることになった。
この事は看守だけでなく死刑囚の3人にも周知されたが、誰が解放されるかは看守たちしか知らないし、囚人たちに教えてはいけない事になっている。
Aは看守に、「BかC、せめてどちらが処刑されるか教えてくれ」と聞いた。
看守は熟考し、問題ないと判断し「Bが処刑される」と答えた。
この時Aは喜ぶべきだろうか。
Three prisoners problem (1959) – Wikipedia
「3人の囚人」問題は、(確率論の問題として) モンティホール問題 (1975)と同等の非常にトリッキーな決定問題です。
この難しさを体感するのに、まずは囚人Aの立場から、直感的に正しいと思える (そして確率論上誤った) 結論を導き出してみましょう。
- 俺(A)が解放される確率は1/3として良いだろう
- 看守はBが処刑されると答えた
- なるほど、つまり俺(A)かCが解放されるということだ
- という事は、この時点で俺(A)が解放される確率は1/2か
- やった、助かるかも知れんぞ(喜)
実は緑色の箇所の解釈に誤りがあるのですが、ここで私が着目したい教訓は、
確率の計算は、ナイーブに問い (問題の表現) の影響を受ける
という事実です。
この問題を={看守が「Bが処刑される」と答えた場合、Xが解放される確率} (但し)を求める問題と思うと、看守の事前の知識 — 誰が解放されるのか — がに影響を与えるのです。
これを見るのに、次のような記号を用意します。
記号 | 意味 |
---|---|
{看守がが処刑されると答える} 事象, | |
{が解放される} 事象, | |
看守が「Bが処刑される」と答えた場合、が解放される確率 |
Aからすると、が1/3を超えて欲しいと思うのですが、実際には次のように計算されます。
この不均衡を引き起こす理由を、確率論では「事象 と が独立ではない」と表現する事ができます。
実際「Cが解放される」時、看守が「Bが処刑されると言う」場合の不定性は「Cが解放される」部分のみ寄与しており、
が成立するからです。
もしも誰が解放されるかを看守が知らなかったり、知ってはいるが、サイコロを振って出た目の3の剰余数に対応する囚人が処刑されるかどうかを答える等、看守の知識が選択に反映されない設定だとこの不均衡は起こりません。
リアクションをリアルに取れるよう、わざとゲストの作品を見ないラジオパーソナリティや芸人さんは、情報の不均衡を嫌っているのでしょうか。
勿論、不均衡が悪いことばかりではありません。
単なる好みの問題だと思っていて、私の場合は大きな不均衡がより楽しいと感じる事が多かったようです。
この結論に着地する予定はなかったのですが、恐らく私がこのように考えている理由の一つは、まさに普段から情報を扱って生活しているからです。
情報が否応なく入ってくる現代社会では、情報を適切に遮断する術も必要です。様々な疾病リスクとの因果関係も無視できません。