エンジニア+数学者の葛藤

注)私は数学者(高等教育機関で教鞭を執る、或いは論文を書くことにより数学で生計を立てている者)ではありません。エンジニア(DBエンジニア)です。

概要: 数学を研究する傍らエンジニアとして仕事をしている私。度々訪れる、実装と理論の対立、ジレンマについて、体裁と教育という側面から思う所を書きます。

体裁

 体裁には幾つかの意味があり、広く使われている定義では「見栄え」のことを言う。目先口先と言って、外見だけを気にするような、悪い意味で使われることの方が多い。しかし数学者の気持ちとしては体裁は重要だ。ここでの体裁とは、「形式」の意味である。
 数学をきちんとやっている人であれば、記述形式-例えば議論で使う用語を明確にする定義等-は基本である。従って言葉を定義する形式も、一定の決まりに従う必要がある。なぜならそれら無しには解釈の余地が無い定義はできないし、定義無しに議論はほとんど意味を成さない。例えば「~という性質を満たすAがあるべき」と考えているのか、「任意のAについて~という性質を満たすべき」と考えているのか、意味が全く異なる。これは要件定義書を書く際にも「~を通過するようなアクセスA」を考えているのか、「アクセスAはいつでも~を通過する」かで設計も実装も変わってくることに対応する。
 (少なくとも日本の)エンジニア市場の価値観としては、形にならない(実装のない)コストへの執着は依然として強い(と感じることが多い)。「エンジニア市場」と書いたのは、必ずしもエンジニアがそうではなく、エンジニアに仕事を割り振る経営者を想定しているからに他ならない。
 私は幸い納得のいく仕事を貰ってると感じられるが、中小企業が多い日本において、果たして一般的なことなのだろうか。直接的な報酬や実績に結び付かない技術検証の記録、テストシナリオ作成、要求分析、設計書作成等はしばしばコスト削減対象のやり玉に上げられるのを見てきた。その結果、システム運用が始まってから、想定されていなかった業務要件に対応するための極めて高コストの巻き戻りが発生、或いは担当者が担当を離れた途端システムが動かなくなり、共通言語で記述されたドキュメントが無いので再稼働の目途が立たない、ということが起こっているのに。
 上記に上げた現金化できない価値は、顧客の信頼を獲得したり、運用コスト・改修コストを下げたり、エンジニアの負担を軽くするという意味で、結果的に未来の顧客単価やインプレッションを上げることに貢献する。
 これらは事業の規模や運用次第で問題も様々だから、一律に「体裁」という言葉で片付けられる問題ではない。しかし事業者が「体裁」をコストと認識する限り、少なくともエンジニアの努力があれば、体裁-形式-をないがしろにすることによるリスクを手続き的に減らすことができ、認識していない時から比してリスク低減分の余剰資産は長期的には膨大だと思う。

教育

 専門職の教育が、市場に委ねられていない例はあるだろうか?
 教員、医師、弁護士、エンジニア、経営者、公務員に至るまで、生徒、顧客、市民を介してプロとしての習熟度を獲得していく。程度の差はあるが、教育機関でできることは限定的なものではないか。
 この仮説は正しい。しかしある視点が抜け落ちていて、その指標ではエンジニアと経営者は同じ教育上の課題を抱えている。
 ある視点というのは、端的に言えば能力の下限が設けられないということだ。これは「教員、医師、弁護士、公務員には資格試験がある」ということも無関係ではないが、それだけを言っているのではない。例えば10歳の子供が教員や医師、弁護士の仕事を能力的に満たすことは可能だろうか?できる、できないは置いておいたとしても、能力的に満たすというのはこの場合どういう状態を言うだろう?
 私は自分が病気になった時、どれだけ能力があっても10歳や20歳そこそこの若い医師に(存在し得るとして)、その手術を担当して欲しいとは思えない。試験や評価は完璧ではないから、医師免許(実質的に博士号)や周囲の評価を以て如何にその医師の能力が担保されたとしても、残念ながら信頼ができない(アニメやドラマでありそうな設定で、風貌が子供で話してみると知的で極めて信頼がおけるという場合も想像できるが、果たして現実的か?)。
 教員、医師、弁護士等の、昔から大きく形を変えずにその職業内容の認識が社会で共有されているものは、「責任の重大さや難しさ、求められる能力や道徳観、社会的・市場価値」等のいわば職業のブランドを、社会が押し上げている部分があるだろう(教員については賛否あるだろうか)。これは数学者も状況が類似していて、具体的な仕事内容についての認知が市民権を得ているとは到底思えないが、数学で何かしらの結果を出そうとすれば、大学で教鞭を執れるくらいの(具体的には博士号を持っているくらいの)専門性を必要とされることは想像しやすいと思う。
 結論を言うと、エンジニアと経営者はそうではない(少なくとも研究者に分類されない場合)。私も自身の経験を逸脱して断言はできないし、認めたくないという気持ちもありながら敢えて書くならば、これらは等しくその職業人の精神性も含めて市場原理に左右されており、市場が求めるものに応えることが専門職である所以である、という側面が強い。結果として、技術的・精神的成熟度は個人と企業に依存し、ばらつきが大きい
 これらのことから、設計の安全性の担保をきちんと取ることで防げる「情報漏洩」「ハッキング」「運用破綻」は起こるべくして起こっていると考えている。実際予算が無ければセキュリティ検証も、結合テストも、運用設計も綿密に行うことはできない。数学のようなアカデミアにおいて「予算が出ないから間違った論文が提出される」という事態は起こり得ないこととの対比である。
 教育の話で言えば、現代社会でもエンジニアや経営者を教育できる段階には来ていない。市場のような固有の環境が教えることは教育と呼ばない。教育は、上述の意味での精神性も含めた能力を育み、規定された専門性の下限を超えるために必要な過程を含む必要がある。経験が教えるものは、そのように設計されているわけではない。

 取り留めのない話になりましたが、上で書いた内容は私が実際に見て経験したことに基づいています。従って真逆の考えを持っている方もいらっしゃるかも知れません。コメント等で発言してもらえれば、有難く参考にさせて頂きます。
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