数学で生きること─AI時代における知性

序章

2026年現在、私たちはAIとともに数学を語り、発見する時代に生きている。かつて数学の発見は、時間をかけ、専門文献を読み、問題の輪郭をゆっくりと捉える営みだった。未知の理論に触れ、数年に及ぶ忍耐と直感の積み重ねを経て、ようやく一つの命題に手が届く。そのような「時間の厚み」を伴う知の獲得過程こそが、数学を支える人間的営みの核心だった。

人工知能(AI)が台頭する時代、このような身体的知性は果たしてどれほどの意味を持ち続けるのだろうか。

「車の発明が、人間の足で歩くことを無価値にしたわけではない」──これはよく使われる例えだ。車は速く遠くまで運んでくれるが、散歩には散歩の価値がある。移動手段としての機能性を超えて、「歩く」という行為そのものが生理的・心理的・社会的に意味を持つからである。

数学もこれと同じではないか。すなわち、AIが複雑な証明を素早く導けるようになっても、「考える」「試す」「間違う」といった過程の中に、人間にとって固有の意味が残るのではないか。

2025年から2026年にかけて、ChatGPT-5系統や他の大規模言語モデルを活用して未解決問題を解いたという報告がいくつも話題になった。中でも有名なのが、「Erdős問題」の一部が、アマチュアや学生によってAIとともに解決された事例である1

たとえば、ケンブリッジ大学の学部生と独学の数学愛好者が、Erdős #728という未解決の組合せ論的問題に挑み、ChatGPT-5.2に導かれながら解を発見した。彼らはAIが提案した証明を検証AI「Aristotle」に渡し、Lean形式で形式化された証明が機械的に正しいと確認されたという2

これらの現象は、単にAIが賢くなったというだけでなく、数学という営みの「入口」と「進め方」を大きく変えうる可能性を示している。

人間とAIの知性

AIの知性とは、一体どのようなものなのか。私たち人間が「知性」と呼んできたものと、どのように異なり、どのように交差しうるのか。特に数学のように、純粋な思考が中心となる営みにおいて、この違いはどう現れるのか。

ひとつの大きな違いは、「時間」と「身体性」の感覚にある。

人間の知性は、時間の流れに内在している。何かを学ぶには時間がかかる。理解とは「腑に落ちる」感覚であり、それは身体を通してしか得られない。長い年月をかけて培われた直感、目の前の問題に対して感じる違和感、手を動かして何度も書き直す試行錯誤──こうしたものは、時間を身体を通して生きる私たちにとっての「知性の経験」そのものだ。

一方、AIは時間に縛られない。億単位の可能性を一瞬で検証できる。膨大な数学文献を一気に読み、無数の証明パターンを試すことができる。時間の厚みも、苦しみも、疲労も、AIには存在しない²。

このような非時間的知性が、私たち人間の「時間的知性」と接触するとき、そこにどのような倫理が立ち現れるのか。言い換えれば、AIが「賢い」ことは明白である。だがそれは、「生きられた賢さ」なのだろうか?

Terence Taoは、AIを「良い聞き手(good listener)」になぞらえてこう述べている:

「AIが挙げるアプローチのうち一つが、実際に自分の問題を解くヒントになった。だが、それを見抜けるかどうかは、使う側の経験にかかっている」3

AIは新しい手法を「創造する」よりも、「思い出す」あるいは「探し出す」ことに優れており、それを使う人間の側にこそ、選別・解釈・応用といった創造的判断が求められる。

数学者Thomas Bloomも、AIが未解決問題の証明を提案したケースのほとんどが、過去の文献の中に既に存在していた定理やテクニックを再発見したものであると指摘している4

ここに、「知性の源泉」がどこにあるかという問いが浮かび上がる。AIの出力は、情報の蓄積と検索・生成能力に基づくものであり、それが本質的に「理解」や「意図」を持ってなされたものではない。

AIは数学者を不要にするか?

AIの補助によって、これまで長い準備と訓練が必要だった数学的営みに、より多くの人が関与できるようになる。この民主化は、楽観的には希望に映るが、一方で「仮の突破(pseudo-breakthrough)」という現象も生まれている。

たとえば、Neel Somani 氏がかつて公開していたブログ記事「Solving Erdős #397 with GPT-4」では、未解決問題の証明に成功したとされていたが、後にその証明が問題の仮定を勝手に変更していたことが判明し、記事は削除された5

このような事例は、AIが数学的文脈を本当に理解しているわけではなく、自然言語的な曖昧さや構文上の誤解を含んだまま「正しそうな証明」を生成してしまうことを示している。

現在の数学界のフィードバックの多くは、「AIが数学者を不要にするものではない」というものである。ただし、従来とは異なる能力が求められる時代になったという認識は共有されている。

Kevin Buzzard(Imperial College London)は、AIが証明を助けるようになった現状を「まだ数学者が背後から覗かれる段階にはない」と表現しつつ、将来に向けた警戒感も滲ませる6

むしろ、AIは新しい「数学的直観」を刺激するツールとしての価値を持ちうる。特に複数の分野にまたがるアイデアを素早く提案できる点では、人的ネットワークや個人の知識を凌駕し得る。

もう一つの議論として、そもそも数学を”理解”する必要があるか?という問いがある。

AIが出力した証明を形式検証器で確かめれば、それは「数学的に正しい」と言える。だが、それを「誰が理解しているのか」という問題が残る。

この問題は、証明とは何か、理解とは何かという哲学的命題を含んでいる。証明は形式的に正しければ十分なのか、それとも人間が納得し、意味づけられなければ証明とは呼べないのか。

2025年にJohannes Schmittが発表した幾何学的論文では、証明の一部がAIとの共同作業であることを明記し、使用モデル・ログ・出力内容を付録として開示した。これは、AIの利用が「証明の信頼性」そのものに直結するという認識の表れである7

おわりに──AIと共に生きる

AIの出現により、「知性」の定義が揺らいでいる時代にあって、私たちは改めて自問しなければならない。

人間にとって数学をするとはどういうことか。時間をかけて問いと向き合い、身体を通して思考を熟成させ、他者と語り合いながら理解を深めていく。このプロセスそのものが、知的活動としての数学の価値を形成しているのではないか。

速さ、正確さ、網羅性──AIが持つこれらの特性は、ある側面においては私たちを凌駕するかもしれない。だが、歩くように考え、語るように証明し、感動するように理解すること。それこそが、人間の数学者としての尊厳であり、魅力なのだ。

車が発明されても私たちは歩く。自動演奏機が生まれても、私たちはピアノを弾く。

そして、AIが証明を書いても、私たちはなお数学を語るだろう。なぜなら数学とは、ただの知識ではなく、「生きる問い」そのものだからだ。

私たちは数学者として、あるいは数学を志す人間として、「この知性とどう共存し、対話するか」が問われている。

  1. Neel Somani, “Solving Erdős #397 with GPT-4”(当該記事は現在削除されている)
  2. New Scientist, “GPT-4 helps students solve maths problem that was unsolved for 25 years”(2025)
  3. Terence Tao, “A first look at machine-assisted proofs”, Notices of the AMS, 2023
  4. Thomas Bloomの発言および分析、WIRED記事 “Can AI Solve Math’s Greatest Mysteries?”(2026)
  5. Reddit: r/math、Erdős問題解決に関する検証スレッド(2025年後半)
  6. Kevin Buzzard, “MATHEMATICAL REASONING AND THE COMPUTER”, Bulletin of the AMS 論説、2025年
  7. Johannes Schmitt, “Extremal descendant integrals on moduli spaces of curves: An inequality discovered and proved in collaboration with AI”, arXiv:2512.14575, 2025