練習を共有することについて

前の記事では、(ピアノの) 練習動画を共有する方法 (を変更した事) について書きました。

今回は、練習を共有することそのものについて書いてみます。

録音や通信に必要なデバイスが手に入りやすくなり、動画や音楽の共有がとても簡単にできる時代になりました。楽器の演奏を趣味にしていて、しかも普段から家族や友達に練習の動画を共有している人にとって、真面目に議論するような事ではないと思うかも知れません。

しかしそのような人であっても、練習の質、音楽に対する意識、演奏をする理由、練習段階にある作品の何を共有して良くて、何を共有しない方が良いのか、自分/他人を励ます事、自分/他人を喜ばせる事、そういった事について若い時から — 年齢というより、楽器を始めてからの年数が若い時から — 深く考え、実践していく事は良い事です。

演奏の質を高めるだけでなく、音楽を通じて精神的充足を得る事ができます。


さて、日本におけるピアノの歴史は浅く、生産と普及の柱が立ったという意味では100年に満たない歴史しかありません。西洋ルーツを持たない日本文化圏に突如普及していったピアノは、その根底にある (宗教や貴族社会にルーツを持つ) 精神性への理解や独自の文化的熟成を待つ事なく、戦争と高度経済成長を経験しました。

庶民の中で表面的で誤ったピアノ像 — どこか格式高い、女性の為の — が浸透していたのも、まだほんの最近のことなのです。[1]私がピアノを始めたばかりの中学生の頃、ピアノを習っている事を友人に話せずにいました。

日本は狭いですから、聞き慣れない音に不寛容というのもあるでしょうが、日本において、アマチュア演奏家の間であってさえ、(そうしたくとも) 必要以上に普段の練習を公開する事に躊躇や罪悪感があるのだとすれば、それはこれらの歴史的・文化的背景と無関係では無さそうです。

プロの演奏家の場合、それらに加えてコンプライアンス、ビジネス上の戦略[2]ブランディング等。、或いはプロの心的特性[3]社会的役割の自覚、精神的充実、精神的成熟等。が作用し、彼ら自身、そして彼らを取り巻く (ある意味閉じた) 環境が、 (演奏としては不完全な) 練習を公開する事に対する禁欲的な態度を求めるのです。

一方では、近年Yuja WangやValentina Lisitsa、角野隼斗さん等一部の若手ピアニストが先導するようなメディアの活用や、コンペティションで上位入賞を経ずに演奏活動で生計を立てている “セミ・プロ” の台頭、そして技術革新による電子ピアノの発展や芸術諸分野に及ぶコレオグラフやインターネットコミュニティの普及等、社会経済的情勢がテコになって、ピアノという楽器への身近さだけでなく、”準備段階” (preliminary) にある演奏を目にする機会が増えました。

それに伴い “準備段階” (preliminary) の演奏を共有する事に寛容な層とそうでない層は二分され、「音楽」の定義を巡って小さな議論が起こるのが定例になっています。


私が完成されていない[4]曲が完成するという概念が適用する限りにおいて、クラシック音楽等の譜面がある音楽に限定しません。を共有する時の、思いつく指針としては以下のようなものがあります:

  1. 作品 (曲) の一部又は全部の演奏について、他人 — これは音楽を専門とするか否かは問わず — が演奏を聴いて楽しめるくらいは完成している;
  2. 演奏に解釈の独創的な部分を含む;
  3. 短すぎない;
  4. 共有 (投稿) が頻繁過ぎない;

一つずつ見ていきます。

1. 他人が楽しめる完成度を満たす

まずは間違えないように弾く事です。

インテンポから遅すぎたり速すぎたりするのも良くないし、それに心地悪い音量や極端なアーティキュレーションを含めるのも自粛しています。

一方で実験的な演奏は記録として価値があると思うので、ポジティブに捉えています。

最近は、楽しそうに・リラックスして弾くのも重要かも知れない、とか、暗譜まではした方が良いかも知れない、等と考える事があります。

2. 解釈の独創的な部分を含める

解釈のオリジナリティは重要です。例え間違わずに弾けても、MIDI音源のような演奏を残したい訳ではありません。

技術や演奏の完成度で見れば、10代の子供でも私より優れている演奏家はごまんといます。彼ら、彼女らもまた、若い頃からオリジナリティを磨いています。

独創性を出すには内省が必要なので、経験を活かす事もできます。

3. 短すぎない

音楽は時間芸術ですから、味わう為に時間が必要です。どんなに短くても1分は無いと意味が分かりません。

幾つかのメディアプラットフォームで採用されているショート動画やInstagramのリール等はこの理由で適しません。

4. 共有 (投稿) が頻繁過ぎない

各コンテンツを取り扱っているアカウントは個人事業主としてのもので (よって公開アカウント)、音楽に限らず、投稿頻度はある程度制限するのが良いと思っています。

また、投稿・編集する暇があればもっと練度が高められるはずです。

この事実は重く見るべきで、かと言って、ひたすら家に籠って練習しさえすれば良いものができる、という窮屈な音楽との向き合い方が正しいとも思いません。

何事もバランスが大切です。

Footnotes

Footnotes
1 私がピアノを始めたばかりの中学生の頃、ピアノを習っている事を友人に話せずにいました。
2 ブランディング等。
3 社会的役割の自覚、精神的充実、精神的成熟等。
4 曲が完成するという概念が適用する限りにおいて、クラシック音楽等の譜面がある音楽に限定しません。